経営者 朝霧重治さん

自由かつ独自のビジネスを学ぶため一橋へ

2013/01/20

連載シリーズ「活躍する卒業生」では、一橋大学の主に商学部を卒業した先輩に、大学時代の思い出や現在のお仕事、現役大学生へのメッセージなどを伺います。今回ご登場いただくのは、COEDOブランドで世界に挑戦する経営者 朝霧重治さんです。

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伊藤邦雄ゼミで鍛えられ三菱重工に入社したが
わずか1年半で退職

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朝霧さんは、川越で生まれ育った。川越高等学校を経て、1993年(平成5年) 、一橋大学経済学部に入学。
「当時から、自分で事業をやりたいという気持ちがありました。何かで読んだのですが、一橋は社長輩出率がナンバーワンの大学ということでした。先輩には、日本の成長をその中枢で支えてきた方が大勢いる。また、いわゆる帝大とは異なり、独自性や自由さがある。一橋なら、自由かつ独自のビジネスが学べるのではないか。これが志望動機でした」

朝霧さんは、実践的な意味でのビジネスが学べると考え、経済学部を選んだ。ところが、高校時代にイメージしていた学問を経済学のなかに見いだすことができなかった。そのため、より実践的講義が行われる商学部へ転部することにした。教授面接にあたり、転部の理由を記した書面を事前に提出。
「そのなかで、実践の 〝践〟 を 〝戦〟 と誤記してしまったのです。教授に『気持ちはわかるが漢字が違うよ』と言われました。これはだめかなと思いましたが、結果は転部がかなったのです。ゼミは、伊藤邦雄先生」

「伊藤ゼミでは、会計学をベースにした企業行動解析を学びました。具体的には、グループ経営、多角化、戦略的提携など、現実の企業行動について、グループで調査し発表する。発表が近づくと、グループのなかで下宿している仲間のところに泊まり込み、徹夜で論文を仕上げていきます。時に議論が白熱したことをよく覚えています。伊藤先生は大変厳しかったですね。発表は夕方に始まり夜遅くまで続きました。ゼミは真剣勝負。伊藤先生にはずいぶん鍛えられました」

こうして朝霧さんは、希望どおり「実践としてのビジネス」を徹底して学んだのである。1997年、商学部を卒業した朝霧さんは、三菱重工に入社した。
「大学2年の夏休みから、毎年バックパッカーとして海外を旅しました。主にまわったのは、インド、中国、東南アジアという当時の途上国。そこで感じたのが、途上国のインフラをつくる仕事はやりがいがあるな、というものでした。」

三菱重工に入社した朝霧さんは、広島製作所に配属。
「入社1年目から現場の仕事を担当。製鉄プラントを建設する大連などへ、よく出張しました」
仕事は志望にマッチしたものだったが、朝霧さんはわずか1年半で三菱重工を退職した。退職のきっかけとなったのは、結婚である。

義父になる人のベンチャー精神に共感し
経営への参画を即決

奥さんの実家を訪れたある日、将来の義父・朝霧幸嘉氏から「一緒にやるか」と誘われた。 「一緒にやるか」とは、幸嘉氏が創業した協同商事の経営を指す。
協同商事の会社案内には、 「私たち協同商事は、 『健康の基礎となる食べ物は安全でおいしいものを』 『日本の農業を少しでもよくしたい』という創業者の熱い思いから、1982年に設立されました。 」とあり、続けて「農産物の栽培から、物流、販売、食品への加工を含め、農産物がお客さまに消費されるまでの全ての過程を、農業の一環と考え、有機栽培青果物栽培指導・加工・販売、物流、ビール製造、食品輸入、廃棄物リサイクル技術研究開発など、農業を出発点とする食のサイクルすべてに関与する、総合食品企業として活動」していると記されている。

「農業が原料供給業にとどまっていたのでは、付加価値が低くいつまでたっても発展はない、と会長は言っていました。農産物の場合、産直のようなサービスの提供、レストランのような調理品の提供、ビールのような加工製品の提供などが付加価値を生む分野です」
「ビール事業を興した際、最初は有機栽培の麦を使おうとしたのですが、大手ビールメーカー以外にそれを麦芽に加工するところがない。自前で加工所をつくるのでは、大きな資金が必要になる。そこで、地元産の薩摩芋に着目したわけです。とにかく会長は、ベンチャー精神にあふれている。私は、これはいいと思い、一緒にやろうとすぐに決めました」

ヨーロッパの文化を形だけ真似て
失敗した地ビール

かつて「地ビールブーム」という現象があった。
「ビールには不思議な規制がありました。それは小規模のビール製造に認可がおりない、という規制です。その規制が1994年の酒税法改正で緩和され、小規模でもビールをつくることができるようになったのです」

規制緩和から数年前の1988年、「ふるさと創生事業」という政策が実施された。各市町村に地域振興のため1億円が交付されたのである。
「町おこし、村おこしと酒税法改正が結びつき、〝地ビール〟が続々と生まれました。地ビールの位置づけは、観光地の新しい特産品 ・ 観光土産。」
「ほとんどの地ビールは、そのクセの強さが日本人の嗜向に合わなかった。また、値段も高い。そのため観光客も、多くは特産品として一度飲めばもういいということになってしまったのです。そもそも、地元の人たちが日常的に飲んでくれません。これでは遠からず採算が取れなくなってしまうのは明らかです」
そのため、ブームは数年で去り、90年代末にはビール事業から撤退する小規模メーカーが相次いだ。

ビール事業再構築のため
ブランドとマーケティングの戦略を一新させた

実は、朝霧さんが入社した1998年協同商事のビール事業は、存続を問われる状況になりつつあった。原因は、地ビールブームの急速な衰退にある。
1996年、幸嘉氏は、薩摩芋を原料とした「小江戸ブルワリー」 (サツマイモラガー)という製品を市場に送り出していた。初期の技術導入を指導したのは、この年ドイツから招聘した、クリスチャン・ミッターバウアーというビール職人だ。原料の麦やホップもドイツから輸入。ドイツが誇るマイクロブルワリーのビール醸造法を本格的に導入すると同時に、彼の下で職人の育成を積極的に行った。
事業は緒に就いたのだが、そのとたん、地ビールブームは衰退の坂を一気に転がり落ち始めた。以後、ビール事業は赤字を積み重ねることになったのである。

2003年、副社長に就任した朝霧さんは、ビール事業の再構築を決意した。
「ミッターバウアーは、5年間にわたり指導してくれました。製品は、在日ドイツ大使館のパーティに常時使われ、御用達の証明書をもらうというように、味に対する評価は高いものでした。また、その5年間で、職人もマイクロブルワリーのビールづくりを、しっかりと身につけたのです。ただ、ドイツ人が好む味覚と、日本人のそれとの間にはかなりの開きがあります。そのため、ドイツの醸造技術を活かしつつも、日本人の好みに合うよう、微調整を繰り返しました。この微調整は、現在も継続しています」

こうして生まれたのが、「COEDOビール」の製品群である。事業再構築に着手したのが2004年。 「COEDOビール」5製品の発売は、2006年10月13日である。この2年間は、日本人にマッチした独自の個性を備えたビールをつくり上げるのと併せ、ブランドイメージとマーケティング戦略の一新に費やされた。
「これまで、日本には『ビールを選ぶ』という習慣がほとんどありませんでした。酒場での注文は、いまだに『まずビール』 『とりあえずビール』 。ブランドを指定する人は、めったにいません。そこに、職人気質を貫いた、高品質で個性豊かなビールを提供する。それにより、ビールを選ぶ楽しみが生まれます。また、地ビールのイメージを拭い去るため、地域性を排するため、川越の愛称である〝小江戸〟という漢字ではなく、〝COEDO〟とアルファベットを使い、ラベルのデザインも都会風のスマートなものにしました」

「日本でのビールに対するイメージは、〝男性専用〟というものでした。COEDOは、女性に飲んでもらおうというビールです。また、男女を問わず、食べることを大切にし、 自分の好みをしっかりと持っている層。COEDOビールの価格は、一般的に考えると高いかもしれません。しかし、こうした顧客層の購買意欲が、値段だけで左右されるとは思いません」

現に「COEDOビール」は、 「購買意欲が値段だけで左右されない」顧客層と、そうした顧客層をターゲットとする高級スーパー、フレンチ ・ イタリアンのレストラン、商品を厳選する酒販店などから、大きな支持を得ているのである。

職人気質を貫いたマイクロブルワリーのビールこそ
真の 〝地元のビール〟

朝霧さんは世界的な品評会やコンペティションへ「COEDOビール」を矢継ぎ早に出品し、多数の賞を獲得した。朝霧さんはこの実績を背景として、輸出にも力を入れている。

朝霧さんが海外での受賞を目標にしたのには、大きな理由がもう一つある。
「COEDOビールを、地元の人たちにも飲んでほしい。しかし、消費者は地元のビールだからということだけで飲んでくれるわけではありません。では、海外で大きな賞を獲得したビール、しかもそれが地元川越のビールだったらどうでしょう。飲んでみよう、ということになるはずです」観光土産の地ビールではなく、職人気質を貫いたマイクロブルワリーのビール。これこそが、真の意味での〝地元のビール〟にほかならない。
最後に──朝霧さんにタンクから直接ついでいただいた「紅赤」は、 色といい、香りといい、味といい、 「素晴らしい」のひと言であった。

asagiri_1.jpg 朝霧重治(あさぎり・しげはる) 1973年埼玉県川越市に生まれる。1997年一橋大学商学部を卒業し、三菱重工に入社。1998年三菱重工を1年半で退職し、株式会社協同商事に入社。2006年ビール事業部門を再構築し、「COEDOビール」のブランドで新たにスタート。翌年から欧米のコンテストで製品の受賞が続く。現在、株式会社協同商事代表取締役社長。国内外で「COEDOビール」の販売拡大を進めている。

※この談話はHitotsubashi Quarterly (HQ)Vol.33 2012年「冬号」より転載をさせていただきました。

(記事投稿2013年1月20日)